知識と気付きと日常

 

 

〜気付きは向こうから 貴方のもとにやってくる〜

 

 

 

「知る」

どれだけ精神世界、精神性を高めても、それを日常に活かせなければ意味がありません。

もちろん「そんなことは、とっくに知っている」という方も多いでしょう。

しかし「知っている」と「日常に活かしている」というのはまったく別のものです。

 

 

既にいろんなことを知っているにもかかわらず、うまく行かないことがあったり、

落ち込んだりすると「私はもう色々分かっているし、こんなに精神的に成長しているのに

うまくことが進まないのは、周りの人や関わる人がまだ成長してくれないからだ」

と人のせいにしてしまったり「私はまだダメだわ」と必要以上に自分を責めたりします。

また、周りの人が「理解を示してくれないこと」が不満だったり、

人に自分の考えを「いかに分かって(認めて)もらうか」が“日常を生きる上での快適さ”

を大きく左右していたりもします。

 

もちろん「知る」ということはとてもすばらしいことです。「知る」ことによって、

たくさんの可能性が開けたり、行動していこうとするエネルギーを増幅させるなど、

大きなきっかけにもなります。

 

しかし、「知る」ということで“満足”するというパターンにはまってしまうと

「知っている」ということが逆に大きな壁を作ることになります。

そうなると、例えば極端な例をあげると「有名な人の話は“素直に受け入れる”」が

「身近な人の話は“抵抗があり受け入れが困難”」になるなど、

身近なところの情報を自らシャットアウトとしてしまう場合もあります。

 

 

“理想の世界”と“現実”のギャップ

これでは「今この瞬間が大切」「今ここに生きる」という大事なことを理解したつもりでも、

日常に活かすどころか、現実から逃げてしまっています。

 

というのは、知りすぎて“知識による理想の世界”を造り出しているからです。

“理想の世界”では「知らない」「理解されない」ということは“恐れ”以外の何者でも

ありません。

しかも“恐れ”は理想世界を一瞬にして壊してしまいますから、自分の中の“恐れ”に

出会わないように、常に前向きであることを自分に強いてしまいます。

 

特に“理想世界”と“現実”のギャップを受け入れるということは、恐れの実体を

目の当たりにすることになるので、ますます恐くなってしまいます。

それでも、うすうすギャップに気がつき始めると、確信に触れる前に「まだまだだわ」と

それを埋めるべく知識を深めたり、気付きを探しに走ったりします。

 

知識を深めたり、外で気付きを得たときに、一瞬「心地よい感覚」になります。

これはもちろん素晴らしいことです。しかし「知ったことで満足」してしまっている場合、

活かしきれずに、日が経つと「物足りない感覚」が甦り、またそれを埋めようと探しに出

かける。完全なループ状態(堂々巡り)です。

さらに“理想世界”にはまっている場合「心地よい感覚」だけを残し、“恐れ”の素である

「物足りない感覚」を隠してしまっているため、不安がそうさせているということに気付い

ていないこともあります。

 

本来ならば情報は「必要な分だけ入ってくる」はずですが、「知りたい」という欲求の方が

極端に強いと、たくさん受け入れすぎて、余計な情報に惑わされたり、迷ったり、結局遠回

りしたりします。

その内容、情報が「誰の言葉か、正しいか、間違っているか?」を見分けることよりも、

大切なのは「今本当に自分に必要かどうか」「それに対して自分がどう感じているか?」と

いう自分の感覚を知ることです。

 

 

「頭では分かってるんだけど・・・?」

決して、興味のある話を聴きに行ったり、本を読んだりすることが問題なのではありません。

一番問題なのは“理想の世界にふさわしい私や環境が整ってなければ完全ではない”という

考え、「・・・でなければならない」という思い込みに捕らわれてしまっていることです。

 

無意識にでも「理想通りの完璧さ」や「知っている」ということに執着があると、例えば、

不愉快なことが起こったときにも、その瞬間の感覚よりも考えることを優先してしまいます。

「きっとこれにはこんな意味があるだわ」と“怒りや悲しみ”を押し殺して、スマートに

結論を出し、マニュアル通り、理想通りの“気付き”を得ようとあれこれ考えます。

 

ここでも「すべては気付き」の言葉通り、起こることの“意味や理由”を探そうとしてしま

うのです。それも“理想”に「あてはめよう」という表れなのです。

 

“怒りや悲しみ”を“気付き”に転換したところで、その時には納得したつもりが、押し殺

して圧縮された行場のない感情は、なくなるわけもなく、ハートの奥に積もっていきます。

そして、別のきっかけに刺激された時には、抑圧されて積もっていた分、もっと大きな形で

出会うことになります。

どちらにしても、“見たくないもの”を隠すための理由付けとして “探しだした気付き”

ならば、本当の意味で気付いたことにはならないでしょう。

 

 

“向き合う”

大切なのは気付きを探すことではなく、その瞬間の感覚から逃げずに“向き合う”ことです。

例えば不愉快なことが起こったときには、あれこれ考えずに不愉快さを感じてみることです。

そこにその感情が存在していることをただ感じるだけでいいと思います。

いつもならあれこれ考えたり、冷静になろうとするところを後回しにして、まずは

“ありのままの感覚”を感じて見ることです。

 

本来気付きとは考えてあてはめるのではなく、自然にわき上がったり、思いもよらない

ところでハッとさせられたりするものです。

 

起こったことの意味を知ることよりも、自分の中にある感情を、何の評価も裁きも入れずに

表現させてあげる勇気が必要です。“理想の私に一歩でも早く近づく努力”よりも先に、

“今どういう状態で何を感じているのか”という正直で地道な現在地確認が必要です。

どんな立派な地図を持っていても、現在地がわからないことには、進みようがないですね。

 

ごく普通の日常での、身近な人との会話や、感情の変化、なんてこと無い行動パターンの中

に大きな気付きがあります。しかしそれは、自分にも人にも理想を求めずに、素直にあるが

ままの自分を感じてこそ出会えるものです。

 

初めは「もういろんなことを学んで知っている」と感じていた“自分自身の見たくない部分

(理想通りではなかったことに気づかされたとき)”を受け入れるのはちょっぴり辛いです。

私も体験してきました。とにかく認めるのが恐いのです。それでも“見たくない自分”を

あるがままに捉えて「こんな感情が私の中にもまだあるんだ…、これも私なんだ」と受け入

れることができた時には、それはそれは計り知れない喜びが待っています。

 

大切なのは、自分自身を深めることです.せっかく外からの知識や出会いを増やしても

「今自分に何が必要で、何が大切か、何がしたいのか」がわからなければ、わが身に起こっ

ている出会いや情報すべてにおいて「知ることを満足させるために出会った人や情報」なの

か「わが人生史上において“鍵”となるような出会いや情報」なのか、それさえも感じる

ことが難しくなってしまいます。

 

 

“シンプル”

また「知る、気づく、学ぶ、感じる」いずれも、本来ならば必要な時に必要なだけ入ってく

るシンプルなものです。

しかし、外から取り入れた知識や考えで頭がいっぱいなら、その複雑さにかき消されている

ことでしょう。時には知っている情報を忘れる(手放す)ことも大切です。

 

「気付きのため、学びのために」と修行チックに考えながら生活するよりも

“必要なことは必要な時に起こる”

ぐらいの楽な気持ちでリラックスしましょう。

 

その時々自然に“興味や魅力を感じたり集中できること”に夢中になっている方が、いつの

間にか『シンプルでピュアな気付き』が、体験を通して実感できるよう、またとないチャンス

となって向こうから貴方のもとにやってきます。

 

 

『向こう』って、どこ? 

それは、飾らないそのまんまの『あなた』のことかも。

 

1999.11. 豊崎優子

 

 

 

 

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